5.竹居、再び
その後は特に問題もなく平穏に過ごしていたのだが、九月の初めに、竹居はキレかけた。
更衣室で体操服から制服に着替え、五時間目の体育から戻ってみれば、教室は妙な雰囲気だった。
制服姿の竹居が、教室の一番後ろの真ん中、自分の席でぼんやり突っ立っていた。
男子たちが竹居を遠巻きにしていた。
ああ、ヤバイ。
教室内に目を走らせる。廊下側にある男子の机に水着の雑誌が二冊、転がっているのをみつけた。竹居のお姉さんかどうかまではわからなかったけれど、それだけで事情はだいたいわかった。
「竹居」
声をかけながら、竹居の周囲に目をやる。凶器になりそうなものがないか。
竹居の机の上には筆箱だけ。
他に凶器になるのは机と、椅子と、机の横にかかってる学生カバンか。
とっさに、筆箱を、右手で竹居の机から払いのけた。ソフトペンケースだ。隣の机にぶつかって床に落ちた。たいした音は立たなかった。
学生カバンは左手でつかんで後ろに捨てた。誰か当たったらごめん。
「竹居」
竹居の顔色が悪い。
上靴を脱いで、竹居の前の席の椅子に立った。それでも竹居のほうが背が高い。視線が合わない。
竹居の机にのぼった。間近で竹居の頭を見下ろした。
ゆっくり、はっきり言う。
「竹居。落ち着いて」
竹居がのろりと視線をあげた。
沢野。
ぎこちなく竹居の口が動いた。声になっていなかった。
それから、かろうじて耳に届く声。かすれて、とぎれとぎれに、それでもなんて言ったのかわかった。
―――俺、キレていい?
「ダメよ」
キレる前に私に許可をとれ。
その約束を竹居は守った。ここまでこらえた。男子たちから離れた。
だけど、許可するために約束させたんじゃない。
「絶対、ダメよ。許さない」
わけも知らせず二度もキレたら、いくら竹居でもクラスから見放される。
それだけはさせない。
竹居と視線を合わせたまま命令する。
「座りなさい」
竹居は悪くない。けれど、男子たちだって事情を知らないのだ。悪気はない。
竹居も、きっとそんなことはわかっている。ただ、感情の折り合いがつかないのだ。
上から両手で、思い切り竹居の両肩を押した。
ぐいぐい押した。耳元で言ってやった。
「ハーゲンダッツ。私の体重増やす気?」
ふ、と竹居の横顔が笑みを浮かべたような気がした。竹居の力が抜けた。
竹居がおとなしく座る。そのまま机にうつ伏せる。
座らせておいてなんだが、これは保健室行きか?
行きだな。
「竹居、保健室行って」
竹居を立たせ、いつぞやのようにふらふらしている竹居の肘あたりをつかんで教室の扉から押し出す。教室には不穏な雰囲気が漂っていた。保健室への付き添いはできなかった。教室のほうをフォローすべきだと学級委員の本能が告げていた。
教室の窓から竹居の姿が見えなくなった途端、ヤジが飛んだ。
「あいつケッペキショウじゃねーの。こんぐらいで」
廊下側で、椅子に座って、男子の真ん中から。
遠巻きにして、竹居にびびってたくせに。
言ったのは田川だ。前に廊下掃除を押しつけられて、地雷がどこにあるかわかんねぇしと呟いていた、冷静ボーイ。
ああ、男子のボス山クーデターか。バカか。ガキか。
だったら竹居と面と向かって殴り合え。竹居がいるときに言え。
無言で田川に向かって歩いていくと、田川が水着の雑誌を私に投げつけた。雑誌が私の胸に当たって床に落ちる。そうやって私にさえびびってんのに竹居に勝てるわけないじゃんよ。
雑誌を拾い上げる。
「これ、誰の?」
冷ややかに問えば、「俺の」と小声で佐藤が言った。
ページの折れ曲がった雑誌をはたいて平らにする。さらに男子の方に歩いて、佐藤に手渡す。
「竹居、こういうの苦手だから。あんまり見せないようにしてやって」
こくこく、佐藤は頷いた。「ゴメン」と小さな声で謝った。
佐藤の隣の田川を睨み付けると、田川が引きつったような顔で、
「お前ら、デキてんじゃねぇの」
言うに事欠いてそれか。
頭の底から冷えていた。
「私、学級委員なの」
椅子に座っている田川を見下ろして言ってやる。ビビリが。ガキが。
「竹居も学級委員なの。コンビなの。だから面倒見るわけ。私より先に、あんたが止めてくれてたらよかったんだけどね」
嫌みを込めて。本音を込めて。
「私が竹居を怖がってないとでも思ってる? 前にガラス割ったの見たでしょ? 竹居がキレたらああなるんだよ。怖いに決まってるじゃん。だからそうなる前に止めるわけ。コンビだから。私だって殴られるかもって思いながら止めてんのよ」
泣きそうになりながら止めてんのよ。
「お前、女だから殴られねーじゃん」
矛盾した言い訳を聞いて、冷静さに拍車がかかる。私はキレると冷えるタイプなんだな、と頭の片隅で思った。
「田川。あんたさっき私に雑誌投げたでしょ。しかも人の雑誌。私を狙って、投げて、当てた。あんたは女にも手をあげる人種ってことよ。でも、竹居は」
竹居は。
「竹居はキレたときだって、ちゃんと狙いは外した。誰にもケガさせなかった。さっきも私を殴らなかった。人としてどっちがまともかなんて、明白だと思うけど。その足りない頭で竹居とあんたとどっちが下か、よぉっく考えて。考えてもわかんないなら見捨てるわ」
たかが学級委員の分際で見捨てるも何もないが、こうなったら睨み合いだ。
一歩も退けない。
田川も退かない。男のプライドか。バカか。
田川が立ち上がった。
あー、殴られるかも。女に手をあげるヤツだってことは確定だし。
怖くて、それでも見栄だけはきっちり張った。まっすぐに田川を見返した。
田川がこっちに向かって左手を伸ばした。
半袖シャツの胸ぐらをつかまれて、引き寄せられた。キャアっと後ろで女子が悲鳴を上げた。
ああ、殴られる。
痛いかな。やだな。
歯を食いしばるんだっけ、こういうとき?
怖くて目を閉じた。
「沢野。退け」
違う人の声がして、体が自由になった。そうっと目を開けると、野口くんが後ろから田川を羽交い締めにしていた。
「沢野は言い過ぎだ。田川が引っ込みつかねぇ。沢野が強いのはよくわかってる。だから沢野が退け。田川も落ち着け」
お前は強いんだからお前が退け。
お前の方が大人なんだからお前が退いてやれ。
そういうことだった。
くしゃくしゃにされたシャツを手で直した。
泣きたいのをこらえた。平気なフリをした。
「ありがとう」
助けてくれた野口くんにはお礼を。
「私も言い過ぎたかも。ごめんね」
ガキの田川には大人の謝罪を。「かも」とつけたあたり、私だって大人になりきれてない。
チャイムが鳴って、私は自分の席に戻った。竹居はその日、教室に戻ってこなかった。
「マコちゃんってば、男子のケンカ仲裁したんだって? 大丈夫? ……ああ、こっちおいで」
放課後、生徒会室に行けば、ヒロキ先輩が心配そうに聞いてくれた。
ヒロキ先輩にそっと背中を押されて、生徒会室の奥に行く。隅っこの椅子に座る。教室で気を張っていたぶん、涙腺が一気にゆるんだ。
あの後、「マコ大丈夫?」ってクラスの女子たちも心配してくれたけど、田川の手前、「全然平気」と答えていた。
平気なわけ、なかった。
竹居をなだめて、田川のくそガキに殴られそうになって、私の方が大人だからって謝って、退いた。
私はどこぞのスーパーマンか。
「大丈夫じゃない、です」
うう。
「こ、怖くて。殴られるかと、思って」
ああ敬語が使えない。
あとからあとから涙が出てきて、またもやヒロキ先輩のハンカチを借りた。
「謝りたくなかったのに」
ううう。
ヒロキ先輩の前で、私はまるっきり子供だ。
「マコちゃん。ここなら心配ないから。安心して泣いたらいいよ。よくがんばったね」
私の座っている椅子の前にしゃがみ込んで、ヒロキ先輩がゆっくりそう言ってくれる。ぽんぽん、頭をなでてくれた。
「あのね、マコちゃんを殴りそうになった田川ってガキね、小学校ではボスだったんだって。竹居くんがいて敵わないもんだから、ちょっと屈折してるんだと思うよ」
ああヒロキ先輩、相変わらず情報早いです。
泣きながら何度も頷くと、「それからね」とヒロキ先輩は付け加えた。
「どうもね、マコちゃん一人だと負担が大きいように見えるよ。よくやってるとはいえね。クラスにもう一人、誰か事情を知って味方になってくれるひと、いない? 男の子が良いと思うんだけどね」
味方。
ひとりだけ、心当たりがある。事情も薄々知ってる人が。
「……います、ひとり」
「うん。そしたらね、早いうちに話しておいた方がいいね。次にこんなことが起こる前にね」
「はい」
ぐずぐず鼻水をすすって、涙をふいた。
「マコちゃん、今日は帰っていいよ」
「でも、仕事、あって」
体育祭に向けて生徒会が忙しくなる時期だった。体育祭の打ち合わせ議事録を、まだ作り終えていなかった。上司のカオル先輩は仕事の遅れに厳しい。怒ると怖い。
「うん。カオルには言っとくから。カオルも、こんな状況でマコちゃんを怒らないよ。大丈夫だから、安心して帰ってね」
ヒロキ先輩の「大丈夫」は、私をほんとに安心させる。
「はい。すみません」
一礼して、ありがたく帰らせてもらった。