3.ノアがふと言った。「……お困り、ですね」
3.体育祭二ヶ月前、木曜日
翌日、ノアはおとなしくノートパソコンに向かっていた。ヘッドホンをつけているものの、表情が冴えない。手はほとんど動いていない。
「ノア」
華奢な肩を軽く叩くと、ノアが驚いて振り向き、慌ててヘッドホンを外した。
「は、はい」
「進んでる?」
「いえ、あの」
ノアが立ち上げていた文書ソフトは、まだ一行も書けていなかった。
「すみません。沢野先輩からは、三日かけていいと、言われたのですが」
「あのな」
三日で終わらなかったらそれ以上かけてもいい、没記事の可能性が高いから気を張るな、と言おうとして、呼ばれた。
「会長、チェック頼む」
体育委員長の吉岡だった。ノアなどより重要度ははるかに上だ。
吉岡が持ってきた、体育祭の来賓へ送る招待状の下書きに、ざっと目を通す。重要なのは日付と時間。そこさえ合っていればいい。
「おっけ。印刷して。後で宛先一覧持ってきて」
「了解」
下書きを受け取って、吉岡が足早に去っていく。と、また呼ばれる。
「会長、予算上がったよぉ」
生徒会室の隅で、会計の水原が手を挙げていた。休みは二日間と言っていたのに、水原は一日休んだだけで仕事に戻ってきていた。結局、マメなやつなのだ。
「今行く」
水原に返して、ノアに短く告げる。
「お前、今日、居残りな」
「は、はい」
ノアが俯く。不安そうな顔をしていた。
「大丈夫だ。書けないなら書かなくていい。とりあえず録音聞いてろ」
はい、とノアが小さく答えた。
その頭をぽんとなでて、俺は水原の元へ向かう。
水原の組んだ体育祭の予算編成を確認し、「どうせ不測の出費が出るから予備費をもうちょい上げろ、ひねり出せ」と指示をして、体育祭の演目決めの打ち合わせに入る。
時間はすぐに過ぎ、また夜七時の定例会を迎えた。
進捗確認をすれば、今日中の仕事が終わってないやつがちらほら出ている。俺自身もフォローに入り、手が回らない分は副会長の三浦にやらせ、あっという間に最終下校時刻となった。
俺が動き回っている間、ノアはただひたすら、ヘッドホンの音声を聞いていた。
他のやつらを全員帰して、生徒会室の戸締まり点検をする。
ノアのヘッドホンを取り上げた。
「帰るぞ。パソコンの電源落とせ」
「は、はい」
ノアが慌てて電源ボタンに手を伸ばすので、またもやカルチャーショックを受けて、その手をつかんだ。こいつは何だ。電源ボタン長押しでもしてパソコン強制終了する気か。そんなこと繰り返してたらいくら優秀な日本製のパソコンでも壊れるぞ。
呆れて、手順を伝える。
「まずは音声ソフトと文書ソフト閉じろ。それから、ちゃんとシャットダウンしろ。シャットダウンて、わかるか」
「あ、ええと、はい」
ノアがマウスを使って、音声ソフトと結局白紙のままの文書ソフトのバツ印を押して終了させる。画面左下のスタートボタンから「シャットダウン」を選んでクリックした。
この半年、沢野の下で議事録作りなどの書記仕事をしてきたはずだ。いくらこのポンコツとて、パソコンの初心者ではないのだ。できるじゃんか、どういうことだと疑問に思い、ふと気づく。パソコンの電源の落とせ―――俺の言葉通りにしようとしたってことか。
ため息が洩れる。
「あのな、電源落とせって、強制終了しろって意味じゃないから。急ぎの時でも、そうやって毎回ちゃんとシャットダウンしろ。パソコンを壊すな」
「は、はい。すみません」
「謝らなくていい。マック行くぞ。お前、時間平気か」
「あ、はい。お財布持ってきました」
当たり前だ、普通は忘れねぇんだよ。心の中で突っ込みつつ、とりあえず誉める。
「うん。えらい。じゃ、さっさと行くぞ」
とろくさいノアの腕を引っ張って、生徒会室を出た。
マックでそれぞれ飲み物を注文し、空いている席に腰掛ける。
「お前な、沢野の下からは外す。書記仕事は今日で終わりだ」
ノアが俯いた。
「はい。あの、クビ、ですね。すみませ……」
「違うから。俺の下で働け。お前の面倒は俺がみる。お前が動きやすいようにする。ただ、俺も時間ないからな。悪いけど、マックで打ち合わせが増える」
「え、えと、はい。時間は、全然かまいません。ですが、私、会長のお役に立てるようなことは、何も」
縮こまったままのノアを促した。
「とりあえずそれを飲め。好きなだけ。それから、リラックスしろ」
どうやらこのポンコツは指示されたことをその通りになぞるので、言葉を選んで言う。
飲め、だけ言ったら飲み干しそうだ。
「はい」
ノアがバニラシェイクに手を伸ばして、一口だけ飲む。
「リラックス」
短く命令すると、うろたえたように視線をさまよわせた。
抽象的な言葉じゃだめなんだな。具体案を出す。
「深呼吸しろ」
「あ、はい」
ノアが思い切り息を吸い込んで、吐き出す。
リラックスしているようには見えないが、まぁいいか。
こいつの適性を試すつもりだった。
「ノア。俺に質問してみろ」
「は、はい。何をお聞きしたらいいでしょうか」
おい。インタビュアーの適性があるんじゃないのか。そういう返し方になるのか。質問内容を自分の頭で考えろと言いたいところだが、ポンコツにそれは無理なんだな、と潔く諦めた。
こいつの使い道は一体どこにある。
じっとノアの顔を見ていると、ノアがふと言った。
「……お困り、ですね」
困っている、確かに。お前の使い方に困ってんだけどな。
ノアの発言を無視した。
「記事は、どこで引っかかってんだ」
聞くと、ノアが顔を曇らせた。
「中村さんが……まだ、苦しいのだと。きっともっと、おっしゃりたいことが、あったのです。お時間をいただいて、お話を最後まで聞くべきでした」
ノアの回答は、俺への答えになっていない。
俺はどこで引っかかっているのか、と聞いている。普通は、ストーリーとか、導入部で迷っているとか、そういう答えだろ。そのはるか手前でつまづいているのか、こいつは。
呆れて言った。
「話な。ノアは充分聞いただろ。中村さんも忙しい人だ。あれ以上、時間もらえないだろ」
約束の時間は一時間。ノアと黒石は、それをオーバーして、一時間半、話を聞いていた。後半、黒石が早口になった理由はそれだ。
「そう、ですよね」
ノアが呟く。
「お前は充分話を聞いてきた。だから次は記事を書け。あのインタビューで重要なのはどこだ」
白紙の文書ファイルを思い浮かべる。
「え、えと。重要なのは、ですね」
ノアの言葉が続かない。俺は言い直す。
「中村さんは何を伝えたかったのか、ってこと」
ノアがまっすぐに俺をみた。
「苦しい、と。だけど自分がやるしかないのだと、言い聞かせていました。苦しいのも承知の上で、私たち後輩から、後に続いてくれる人が出てきてくれたら嬉しいと、感じていらっしゃいました」
そのセリフに、まばたきする。
そんなこと、中村さんは言ってなかったろ。
―――カンボジアが少しでも豊かになるしか、解決方法はないのね。私はそのために活動してるんだもの。へこんでる暇なんかないわ。
中村さんの言葉から、その気持ちを想像してるのか。
どうせ没記事だ。好きに書かせてみるか。
「わかった。じゃぁな、お前は、中村さんの言葉を引用しつつ、お前が感じた中村さんの気持ちを書け。原稿用紙十枚分だ」
「はい」
ノアが頷く。
「期限は三日じゃなくていい。時間は気にするな。書けたら俺に提出しろ」
「はい」
おとなしく、ノアがまた頷く。
ふと思いついて、聞いた。
「今日、生徒会で気になったことは?」
ノアがじっと俺を見る。
「会長が、お忙しそうでした」
まぁ、忙しい。それが普通だ。
そんな当たり前のことを言われてもな。投げやりに、さらに聞く。
「他、何に気づいた?」
ノアがしばらく黙る。それから言った。
「沢野先輩の具合が、悪そうでした。あとは、体育委員長が慌てていました。不安そうでした。心配をしていらっしゃいました」
打ち合わせで沢野と一緒だったが、あいつ普段通りじゃなかったか。
それに、夜七時の定例会。期限の危ない仕事を持ってる人、という質問に、体育委員長は手を挙げなかった。
「体育委員長は何を心配してたんだ」
「……おそらく、全部、です。自分にできるのかと、自信をなくしかけているように見えました。忙しくなってきて、手が回らない、と感じていらっしゃるように思えました」
「へぇ」
体育委員長の吉岡はいつも陽気だ。そんな素振りなど見せなかったが。
ポンコツの勝手な思いこみか。それとも本当か。
明日確かめることにして、アイスコーヒーを飲む。
「会長は、大丈夫、ですか」
「は?」
「お休みが、必要では、ないですか」
ポンコツが心配そうな目をしていた。
「休めるもんなら休むがな。そんなこと言える状況じゃないだろ」
返すと、ポンコツが呟いた。
「会長は、お強いですね」
俺は笑った。
「逆だ。強いのが会長になるんだ」
お前はすぐ泣くし弱いがな、と、内心つけたした。